エジプトの船

概してエジプトでは大木が育たないため、大きな船をつくるための材料不足と、小さな木材を巧みに組み合わせて作らざるをえない環境にあったと考えられているようです。また、エジプトの造船技術の進化は、墳墓に残された記録、レリーフや土器の絵をとおし研究が進められているようです。

エジプト初期の舟は、パピルス草で作られ、河川において発達しています。
しかしパピルス草という柔らかい材料では、オール(櫂)受けが作れないため(てこを利用できない。)オールや帆を備えるものはなく、主に水掻きパドルを利用されていたと言われます。(もちろん大きな荷物を運ぶこともできず、海上に乗り出せないでいた。)

帆は紀元前3500年ごろに発明され導入されたようです。 この時期にナイル川をでて地中海にも船を乗り出したように考えられています。BC25世紀初頭のサフラーというファラオは、海上遠征隊を複数回、レバノンへ派遣しており、またBC15世紀ごろのハトシェプス女王の時代にも交易活動に力を注いでおり、ソマリアに派遣した商船隊の行程の記録がレリーフで残されたものは中でも有名だそうです。この残されたハトシェプスト女王のレリーフからは、竜骨をもつ櫂船(オールがある船)が見受けられるようです。ただし肋材は存在しないと推定されているようです。

有名なクフ王のピラミッド近くでクフ王時代(紀元前26世紀)の船が、ほぼ無傷で発見されたことはよく知られていると思います。 (「太陽の船」「クフ王の船」と呼ばれています。)全長は約42M、レバノン杉で作られ、一部にはインドしか産出しない木材が使用されているようです。この船は、最初、その形から実際に河に浮かぶことはない儀式用の舟と理解されていましたが、その後の調査で水面で使用されていた形跡がみつかったことから、巡礼のため造船されたものであるとか、王の墓へ王の死体を運ぶためにつくられたのではないかと言われています。

エジプトの船 アマティ社キット

エジプトの船

古代エジプトの貿易船。モデルは、エジプト古王国第5王朝2代目の王(BC25世紀頃統治したファラオ)、サフラーの葬祭殿内レリーフから作成された模型です。(アマティ社のキットです。)サフラーは在位中複数回の海外遠征を実施。中でもプント国への遠征では、ミイラの防腐処理にも使われた没薬(ミルラ)、金銀合金「エレクトラム」など、膨大な数の戦利品を持ち帰ったとされます。レリーフにはこの成功への祝賀とともにこの船の姿が描かれています。

フェニキア人たち

フェニキアの船に関しては、どの本でもあまり資料が無いと書かれていますが、少なくとも、フェニキア人はかなり古くから造船や航海技術の発展に大きく関与した民族の一つであることは確実なようです。

ヘロドトスの著述によると、フェニキア人は紀元前7世紀には、アフリカ大陸を周航したとあるそうです。(この点の真偽は定かではありませんが、結構有名な話です。)一般的に彼らは「西は大西洋」から、「東はペルシア・セイロン」にまで到達していたといわれており、また彼らは星を利用した夜間航海術を初めて開発したと言われています。

ギリシアの海上通商は青銅時代の末期になって盛んになったといわれているそうですが、主要な役割を果たしたのはフェニキア人であったそうです。従来はエーゲ海の住人たちがギリシアの海上通商を行っていたと考えられていたそうですが、1960年のある発掘で覆され、そのように理解されるようになったそうです。

BC1500年頃のフェニキアの商船を、同時代のエジプトの船と比較すると、素人目にも、かなり技術上の進展があることを確認できます。
というのは、エジプトの船には、船体が十分な強度を保てなかったのか、補強用のロープが張られていますが、フェニキアのそれにはロープがありません。工作技術の上から十分な強度を確保できるようになったのだと思われます。

BC1200年頃から活発に都市国家を建設していたようですが、最盛期には地中海貿易を独占するほどにまでなっていると言われています。紀元前1世紀の商船をみると船体のほぼ中央にマストがあり、ずんぐりとした船型を有しており、この形は、その後のローマや中世の時代の商船~「ラウンドシップ」の特徴そのままです。
(なお、出版年の古い本には、このずんぐり型の商船のはしりは、エジプトだと書いているものもありました。)

戦闘艦としては、彼らはペンテコントロスバイレムと呼ばれる船を用いていました。ペンテコントロスは櫂(オール)の列が1段、バイレム列が、上下2段になっているものをいいます。また、船首水中部には、衝角があり、戦闘時には、これを敵船にぶつけたり、敵の櫂にぶっつけて折り操船能力を奪ったりしていたようです。

ギリシアの船

   オール(櫂) の列が、上下2段になっているものをバイレムと呼ぶことはフェニキアの章で書きました。 さらに三段櫂船をトライレムと呼びます。
(その他文献には、クオドリレム(4段櫂船)、クインクエレム(5段櫂船)、ヘクサレム、ヘプタレムなどが存在するそうですが、たとえば18段櫂船というのが、18段もあるとは考えられません。これには、1本の櫂につく人の数でないか、という有力説があります。このあたりは、それらを踏まえてご理解ください。)

 紀元前480年におこったサラミスの海戦(ペルシア戦争)ではギリシアの300隻あまりのトライレム艦隊が活躍し、1200隻あまりのペルシア艦隊を打ち破っていることは歴史好きの方はよくご存じだと思いますが、一般的にギリシア海軍の主力はトライレムと思われていることがあります。しかしながら、当時トライレムの造船には、莫大な費用がかかったようで、しかもギリシアは都市国家毎に海軍がもたれていましたから、全ての都市国家が等しくトライレムを採用していたわけではないようです。海軍の主力としてトライレムを採用できていたのは都市国家アテネくらいのようです。 アテネは、豊富な経済力によって、ペルシア戦争前より主力として採用していたとされています。

 トライレムは、船首水中部に、フェニキアのバイレム同様、衝角(ラム)をもっており、敵陣列を強硬突破しながら敵艦の櫂を折り、敵陣列を突き抜けたところで、急速反転して運動力を失った船に後ろからめがけて、接舷斬込むような戦い方が主にとられていたと推測されています。

(模型の写真はガレー船の章において紹介させていただいております。)

ローマの船

 ローマはもともと海に対し特別な関心を持っていた民族ではなく、優れた独自の船を発達させた訳ではありません。しかし、彼らは優れた統治力により、他の海洋民族を利用しその文化を吸収していったようです。

戦闘艦/バイレム・トライレム(トライリム)・クインクエレム

最初の艦隊を造ったのは紀元前4世紀頃とされます。(といっても20隻くらい)

カルタゴとの戦争が避け難いものとなって本格的に再編されたが(といっても120隻くらい)殆どの船は鈍重なクインクエレムであったという。紀元前1世紀には、鈍重なトライレム・クインクエレムは廃され、軽快なバイレムに統一されています。
概して、ローマでは、船は船陸兵、陸戦主体に用いられてるようなイメージがあります。たとえば接舷斬り込みでも、船を横付けし、かぎ爪のついた渡板をかけて戦うなど、どこか陸戦の延長のような先方がとられています。

商船の特徴

ローマ商船は、積載量を多くするため、長さと幅1:2から3程度で、ずんぐりとした船型、かつ、吃水を深く造っています。船首斜め上方にむけて、マストをつけ、そこに四角帆をかけています。(アルテモンと呼ぶ。ローマ商船の特徴。)また、船尾には白鳥の彫刻を設置していることが多いようです。

ローマ時代、多くの人口をささえるため小麦などの穀物に大量の需要があり、商船の大型のものは”小麦船”、”穀物船”などと呼ばれていたとされます。

1988年に海底調査により4世紀のローマ商船が発見されました。イシスと名付けられたこのローマ商船から、この時代の正確な帆船の姿が伝えられ、研究が進んだと思われます。

不思議な共通点

エジプトの船も、ギリシャの船も、ローマの船も、まあしっかりと、目の模様が船首に描かれています。東南アジアの船にも描かれていたりします。インドやアラブの船はどうだったのでしょうか。今でもエジプトに行けば、ホルスの目と呼ばれる模様がついたお土産品が結構あります。

古代では不似合いなくらい広い地域において、同じような印が用いられるという背景や理由、あまりそれらを説明している本を読んだことがありません。

なんなんでしょうね?